熊を放つ

そういえばこの間、熊の夢を見た。

所長の買い物に付き合うことになり、車庫に行くと熊が立っていました。
どうやら所長の熊のようで、一緒に行くらしく、なぜか後部座席に並んで座ることになる。熊はとても陽気で大人しかったけれど(喋ったりはしない)、彼の手はなぜかグルーミーのように爪が長く、普通の熊のような平べったい肉球のある掌ではなくて、戯れにでも、はたかれたりしたら、その一撃だけで死ぬんだろうな、一瞬でも気を抜いてはいけないな、と思いながら熊を見ていた。

単純にこのニュースを見たせいでそんな夢を見たのでしょうが、熊の夢、というと、あるとてもすきな文章書きの人の日記を思い出すのでした。
もうオンラインにログはないので引用してしまう。

熊の夢を見たのだ。
裏庭に広がる芝生の上で、熊の一家があそんでいた。
行きはよいよい帰りはこわい。


通り過ぎる折り、ぬいぐるみに見えた。
平穏にあそんでいる。


走ってはいけないよ。
ふと牙が見えた。
あれは平穏じゃないんだ。


縁側から振り返ると、喰い殺される背中があった。
血を流していたら舞台に間に合わないよ。

あれは平穏じゃないんだ。という一文が頭から離れなくなる。

堀江敏幸さんの『熊の敷石』や、星野道夫さんのことも思い出します。いまだに星野道夫さんの死はどうとらえてよいのかわからない。
そういえば吉村昭さんの本に熊の話があったなぁ、読んでみようかしらん、とおもってちょっと調べてみたらこわすぎた(元になった事件のWikipedia。残酷な描写があるのでご注意)。悪い夢を見るどころか眠れなくなりそう。
熊は、なんというか、自然の暴力性の象徴のような気がする。怒りも悲しみも憎しみもまるまる呑み込んでしまう、圧倒的な暴力。だからこそ畏れ敬われてきたんだろうな。